壺の碑伝説の千曳神社の狛犬
大同二年(807)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。
江戸時代に取毀し仮社としていたが、明和二年(1765)再興した。
創建1200年。7月28日に創設1200年の例大祭が行われた。
古くから「日本中央」と刻んだ「壺の碑」を建てたという伝説があって、
これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。
名にし負う千曳の石にあとしめて動きなき世と神や守らむ 南部重信
たのめぞや今世の身かは後の世もなほやすかれと道行の神 遊行上人
石文の跡をさぐりて思はずも千歳の檜葉に逢ひにける哉 大町桂月
狛犬は二対鎮座していた。


2007年9月15日撮影
青森県七戸町
旧天間林村大字天間館字菩提木56-2
関連
平成・奥の細道ウォーク
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/hosomichi/
壺の碑新伝説
https://masajiinokobeya.seesaa.net/article/200711article_24.html
壺の碑伝説の千曳神社@阿吽探訪
http://aunkomainu.at.webry.info/200709/article_1.html
千曳神社の伝説
彼の家に代々言伝ふることには、神代の時に石の札を建て、其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追返せし事なるに、悪鬼の来りて其の石を土中へ深く隠せしを、神々達の集り探し出し給ひし所こそ石文村にて、其石を建し所は坪村に有りしを、坂上田村麻呂来たり給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり。
(東遊雑記)
千曳神社由緒
本社は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創祀と伝えられている。
山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。
江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では順路第一の地であった。
それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和二年(一七六五)再興した。
古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。
つぼのいしぶみ
顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。
信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。)
私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。』
文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」より
[備考]
・史実は坂上田村麻呂はこの地までは北上していない。
坂上田村麻呂は現在の岩手県水沢付近までしか、北上しなかった。実際に都母(つも)に行ったとされる武将は、田村麻呂の次に蝦夷を追った文屋綿麻呂である。しかし、古い事柄を英雄である田村麻呂に関係付ける傾向は多く見られる。実際に綿麻呂が碑に文字を書いたとすれば、弘仁2年(811年)頃の出来事になる。
蝦夷征討@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%BE%81%E8%A8%8E
坂上田村麻呂@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82
文室綿麻呂@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E7%B6%BF%E9%BA%BB%E5%91%82
日本後紀(卷第廿一起弘仁二年正月、尽同閏十二月。)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/kouki/kouki.html

この記事へのコメント
幼い頃、父に聞いた話しですが、北海道に渡った先祖が子供の頃、青森に政府の役人が来て、この「日本中央」石碑を村人総出で探した際に長松・由松どちらかが見つけんですが、幼かったため申し出なかったとのことです。
そのまま、石碑を誰にも見たことを話さずに北海道に渡り、暫くして子・孫の身内に話したそうです。しかし、田舎なので話題にもならなかったんでしょうね。長松・由松はニシン漁の最盛期の親方になってたし、まわりはこの石碑の重要性を理解してなかったのでしょうね・・・・・
その後昭和24年に石碑は発見されたそうですが、今思うと自分の父が子供の頃この話を聞く後のようですね。父は大正7年生まれです。
自分は、大学の時ルーツ探しでこの神社に行きました。
今日、偶然このブログ見つけ、幼い頃父が話してくれた話を懐かしく思いコメントしました。
「千引」姓は数年前のNTT電話帳ベースで全国24件のレア姓です。
ちなみに伯母さんは「坪」へ嫁ぎました。
はじめまして。当然、千引は”ちびき”と読んでよろしいのでしょうか。
日本中央の碑は昭和24年6月21日、東北町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で千曳の川村種吉氏により発見されたそうですね。
ところで、千引さんがコメントで書かれた話は東北町はご存知でしょうか? 口伝だとしても貴重な情報だと思います。
明治九年明治天皇が東北巡行の際、その命を受けて石碑を探索させ、社殿の下を発掘させたという記録が残っているそうですが、ご先祖のお話とほぼ一致しますね。
ご先祖の長松・由松さんは明治時代に北海道に渡ったそうですので、石碑の発見は多分、明治九年頃だったとも推定できます。
長松・由松さんの年代と一致するでしょうか?
私の祖母が明治中頃の生まれで、由松の子です。由松と長松は兄:長松、弟:由松の兄弟です。
若くして、北海道に渡り結婚も早かったと思うので、推定ですが合致しそうです。実家に叔父が作った簡単な家系図があるので確認してみます。
私の実家は北海道寿都町にあり、祖母はニシン場の親方の長女だったので婿をとってます。
本家は島牧村にあり、その先が天間林というこうです。
もちろん天間林にも千引家があり、北海道・青森にいる全てが血筋と言っても過言ではないと思います。多分、国内全て・・・
昭和54年に明治大学に入学した際に英語の越智道雄教授に「君は古事記にでてくる『千引の石』に関係ありますか?」と言われたのを思い出し、調べてました。
調べると天間林にある「千引大明神」は『千引の石』が発端みたですし、よく考えると天間林は「天との間の林」なんですね・・・
調べてたら、『壺の碑』が出てきて「昔、お父ちゃんが話してくれたことだ・・・」と思いメールしました。
父は平成4年に他界し詳しく聞いておけばよかったということが沢山あり残念です。
ご存知かと思いますが、『壷の碑』は、江戸時代に、松尾芭蕉がおくのほそ道で多賀城(現宮城県多賀城市)にある碑を壷の碑と書き、その碑が壷の碑と誤って伝わっていました。
昭和24年に日本中央の碑が発見され、その碑が袖中抄で書かれた壷の碑ではないかと考えられています。
千引さんのお話をお聞きし、壷の碑に関わる秘話として更に情報を知りたくなりました。
ご先祖の長松・由松さんの生年がおわかりになれば教えていただければ幸いです。
なお、今回の話をブログ本文で紹介してもよろしいでしょうか?
生年はわかりませんが、実家に連絡し過去帳を見てもらいました。
長松は大正10年12月24日逝去享年73歳でした。
由松は昭和18年 8月 3日逝去享年79歳でした。
家系図によると、兄弟が多く長松は上で一番下の由松を連れて北海道に渡ったようです。
私の父が大正7年生まれですので、長松から話を聞くことは不可能ですので、父の祖父にあたる由松が当事者のようです。年齢的にもあてはまるかと思います。明治9年は10~12歳くらいではないかと思います。
この話は本当かどうかわかりませんが、自分の先祖のことですので信じたいし、私に話してくてた時の父の話し振りから信じたいです。
紹介するのはかまわないと思います。
でも、親戚一同の許可が必要でしょうか・・・・(爆)
東北町の役場が知っているかですが、わかりません。
今も天間林や野辺地に親族がおりますが、由松が碑を見たことは北海道に渡ってから話したことですから、青森の親戚たちはこの話は知らないのではないかと思います。おそらくその者達は役場に申し出ていることはないと思われます。
千引 健靖
千引さんのお話(コメント)から整理しますと、曽祖父の由松さんの生年が1864~65年となり、由松さんが日本中央の碑を発見したのが一斉探索した明治9年だとすると当時10~12歳で口伝の内容と合致しますね。
この話は私も信じます。
公式の発見者は川村種吉氏に変わりはありませんので、このような秘話があったということは公開しても問題はないかと思います。
最初に千引さんのコメントをいただいたとき、映画のStand by Meが頭をよぎりました。いい話をありがとうございました。
もし、よろしければブログのトップページの最後にある「メッセージを送る」でメールアドレスを教えていただけませんでしょうか。
今後はメールでお話したいと思います。
前回のコメントの一部訂正と補足説明をします。
由松さんの生誕年は1865年[死亡年(1943)-享年(79)+1]で、誕生日によって元治2年か慶応元年のお生まれになります。
また、碑の発見が明治9年だとすると、年齢は数え年で12歳、満年齢で10~11歳となります。
自分の先祖の話など、なにも知らないで今までいました。
お二方のコメントを読んで、大変驚きました。
また、近い身内以外で「ちびき」という苗字の人を
見たことがなかったので、とても嬉しく思います。
私ももう少し自分の名前に誇りを持って、
色々調べて見たいと思います。
健靖さんの調査では、「千引」姓は数年前のNTT電話帳ベースで全国24件だそうですね。
調査が進展することを祈念致します。
であれば、
明治9年には20歳ではありませんか?
長旅をしていましたのでコメントが遅れました。
次のように算出しました。
昭和18年=西暦1943年=享年79歳
明治09年=西暦1876年=数え12歳
元治2年/慶応元年=西暦1865年=数え01歳(誕生)
大変失礼いたしました。
壺の碑伝説が縁でさらに新しい史実が発見できるかも知れません。
今、本家で元気で居るのは、私の義母と、五人兄弟と、寿都、豊浜の従兄妹です。
お伺いします。
島牧村と寿都町は隣接していますね?
島牧村字歌島千引本家と寿都町千引家との関係はご存知でしょうか。
n.kobayashiさんはムッちゃんの旦那様ですね(^o^)
私の父・豊とムッちゃんのお母さんが従兄妹です。
私の祖母カヨとムッちゃんの祖父鶴松が兄妹で由松の子供です。
なんか結構、皆さん見ていただいているようですね。
健靖
”千引(むつ)”さんともご縁があるかも知れませんね。
ところで、”東北”さんは東北町の方でしょうか?
私も2年ほど前にここのサイトを見つけたのですが、
いろんな方が増えていたのでびっくりしました。
私は島牧村字歌島千引本家の五人兄弟の次男の娘なので、
上記の「ムッちゃん」は私の叔母にあたりますね(・∀・)
お正月に千引家三男宅で祖母や従兄弟とここのサイトを
観ておりました。
こうして私の知らない「千引」と言う苗字の方が
たくさんいらっしゃるんだなーと思うとうれしいです。
千引健靖さんの曽祖父の由松さんの縁で、遠縁の千引一族の皆さんがまた繋がり始めたようですね。
多分、次の記事はご覧になっていないと思いますので読んでみて下さい。
壺の碑新伝説
http://masaji.at.webry.info/200711/article_24.html
元々は、自身の名前の由来を知りたくてインターネットで探していたら、
ちょうどこの記事にぶつかったので、
記事は先に読んでいました。
コメント欄の存在を今まで知らなかったのです。
健靖氏が記載されている鶴松さんは私の曽祖父になりますが、
今も島牧のお仏壇には鶴松さんが飾られています。
ついでに寿都の千引家は私の祖母の弟さんだったと思います。
久しぶりに拝見をしたら、一族郎党の書き込みがあり、驚いております。
まさじさんのブログで千引家が盛り上がってしまい申し訳ありません。
でも、このブログのお陰で父から聞いて自分しか知らなかったことを、
一族の他の人たちにも知っていただくことが出来たので、大変感謝しております。
今年のお盆も、島牧の千引家(屋号ヤマキュウイチ)の仏壇にお参りに行きました。本家五人兄弟次男の娘さんのお父さん(次男)にもお会いしてきました。
自分の実家は寿都にあり由松さんの長女で鶴松さんの妹『かよ』が婿をとって拓いた家(屋号カネキュウイチ)です。島牧の仏壇の上にあった由松さんの連れ合いの写真に祖母かよはソックリです。
今、寿都には3軒の千引家があり、うちと本家五人兄弟次男さんの従弟にあたる家ともう一軒です。
千引(むつ)さんは青森県にいらしゃる一族の方ですね。自分は大学生の時、ルーツ旅行で青森を訪れ、その際に青森にいらっしゃる方達にもお会いしました。
今回まさじさんとやり取りをし、この件につき調べる折にむつの五三郎さんにも、確認いたしました。
2008/05/03の千引さんは、どちらの千引さんなのだろう??????
いずれにしても、まさじさん、賑やかにしてすみません。
今後もよろしく、お願いいたします。 健靖
千曳神社の記事掲載から、明治時代に「長松・由松さんが『壷の碑』を発見」が明らかになり、それが、今、分散した千引家の繋がりを強くされるのは嬉しい限りです。
ところで、5年後の2015年は由松さんの生誕150周年となりますね。
私が千曳神社や日本中央の碑を訪れたのは平成奥の細道ウォークで青森県を道中した2007年9月ですから、かれこれ4年前になります。
「日本中央」以外の文字を調査していらっしゃる方がおられるそうですが、その情報は持っていません。
東征の謎を解く旅をなさっているのですか?
その成果をインターネットなどで公開されているのでしたら紹介していただけると嬉しいです。
ところで、たかとりさんはご存じかと思いますが、千曳神社由緒では本社は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創祀と伝えられていますが、史実では田村麻呂はここまでは北上していません。
当記事に関連して、コメント欄での千引さんからの情報をもとに下記記事を投稿していますので参考にしてください。
「壺の碑」に新説?「日本中央の碑」は明治9年に発見@JANJAN NEWS
http://janjan.voicejapan.org/culture/0711/0711085354/1.php
「坂上田村麻呂はこの地に到達していないが、文屋綿麻呂はこの地に到達している。」が通説となっています。
蝦夷征討
・第3期
田村麻呂による第3期の蝦夷征討は、延暦22年(803年)に志波城を築城したことで終了した。
延暦24年(805年) : 藤原緒嗣、蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。
・第4期
弘仁2年(811年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。
爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もある。
千曳神社由緒
大同二年(807)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。
千曳神社由緒での「807年の創祀」の伝承は、田村麻呂の蝦夷征討第3期の終了と文屋綿麻呂(文室綿麻呂)の蝦夷征討第4期の間にあたります。千曳神社由緒が正しいとすれば、田村麻呂は、 藤原緒嗣が蝦夷征討の中止を奏上した805年の後も蝦夷征討をしたことになりますね。
たかとりさんは、どのように推理されますか?
千曳神社の創祀は誰か。面白い依頼をいただき、古代ロマン的に推理してみました。この地に来ていないが千曳神社由緒に記す坂上田村麻呂か、はたまた後を継いだ文室綿麻呂か、二人の候補があがっています。しかし由緒での創始は二人の征夷の間の年号となっていて謎となっています。
千曳神社の名が示すように、石文を千人で曳いて石文村に埋めたときに創祀したと考えます。ここで創祀者を考える前に誰が石文を残したかを考えてみます。まず綿麻呂が自分で石に「日本中央」と刻みそれを自ら埋めることはありえないでしょう。やはり田村麻呂が刻んだのだろうか。
田村麻呂が刻んだとしたらどうなのか。過去の検討の中には征夷軍が本当にこの北の果てを日本の中心と考えただろうか。このような石碑を朝廷が許可するだろうかとの意見がありました。田村麻呂793年の副将軍としての初の征夷で石文を刻んだとしても、10数年しか経ていません。
綿麻呂は田村麻呂の助命嘆願で命を得ており、命の恩人がまだ生存中の田村麻呂の許可無くこの石文を移動して埋めることはありえないでしょう。田村麻呂が事前に移動することを指示していたなら可能だが、自分が刻んだ石文を移動させる理由が見当たらず可能性は低いと考えます。もっと前から石文はあったと考えた方が良いように思われます。
石文の所在を征夷の時に見つけ、それを移動して埋めたならば、その埋めたことも都に伝わったと思われます。石文を移動した後の平安後期に詠われた歌がいくつかありますが、石文の移動や埋めたことは歌われておらず、まるで恋の石文のように歌っています。「日本中央」と石文に刻んだ後、長い時間の間に「壺の石文」とその所在だけが伝聞されてのでしょうか。ただ1190年頃の袖中抄には「田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけ」と記されて、埋めたことは記していないが全く碑文が忘れ去られていたわけではないことも付け加えておきます。
・誰が「日本中央」を碑に書いたか
・千曳神社の創祀は誰か
どちらも田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題が共通しますね。
壺の碑伝説の調査が進展したときは、教えて頂けると嬉しいです。
袖中抄に「日本中央」の記載があることから鎌倉時代が始まるこの時に石文は地上にあったとする考えもあるようです。記載内容の出所が記されておらず、伝聞のように読み取れるので、現地に近い千曳神社由緒に記す807年ころの創祀が真に近いと考えます。
石文建立が田村麻呂より前だとすると候補は日本武尊になります。尊の東征は400年前後と考えられて、あまりに古くどこまで東征したかも定かでなく、実在さえ疑う人がいます。尊は東征の終わりに亡くなられていることから、石文建立のことなどが正確に残らず伝聞となったこともうなずけます。
尊なら「日本中央(ひのもとのまなか)」という強烈な領域認識の四文字も天皇の許可無く刻むことが出来たことでしょう。むしろ、この地を「日本北端」としなかったことに、遠い未来を見据えた深い見識をみます。この石文の先を野辺と名付けたなら尚更に思います。
諸推理ありがとうございます。
推理4
・文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」に詳細に千曳神社の伝説が書かれているのですから、由緒の創祀も真に近いのでしょうか。
・ご存じと思いますが、田村麻呂の807年頃の年譜(抜粋)は、
大同元年(806年)10月12日 49歳
陸奥・出羽に擬任郡司と擬任軍毅を任ずることを願い、認められた。
大同2年(807年) 11月16日 50歳
兵部卿を兼ねた。
とあります。田村麻呂が現地へ行った可能性があると考えても良いのでしょうか?
推理5
・日本書紀での日本武尊の東征は古事記とはルートが大きく異なり、上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)まで至っています。更に北上したことになりますね。関連した伝聞はあるのでしょうか。
・「野辺」とは「野辺地」のことでしょうか。通説では野辺地の名の由来は、アイヌ語の「ヌプンペッ」(野中を流れる川)といわれているようですね。
繰り返しますが、壺の碑伝説の調査が進展したときは、教えて頂けると嬉しいです。「メッセージ」でメールアドレスを教えてくだされば、メール交信ができますね。
石文建立が日本武尊によるものと主張するには、尊がこの北の果てに来たこと、なぜ「日本中央」の文字なのか、そして何故この地でなければならなかったのかの立証が必要と考えます。今の時代にそんなことができるのでしょうか。ところがインターネットの時代だからでることもあります。今までの調査結果から推理してみます。
具体的にはインターネットの地図です。ネットの地図は画面で拡大・縮小が容易で自在に画面の上で直線を引くことができます。便利なのは「Mapionの距離測」です。古代の人は方角に対するこだわりがあるようで、その古代人のこだわりの発見に、ネットの地図が有効なのです。次のURLは横須賀の鷹取小学校の裏にある鷹取山と大磯の鷹取山を結んだ先が富士山に向かっていて、古代人の富士山に対するこだわり、意志を発見した画面です。
http://www.mapion.co.jp/m/route/35.34707428227249_139.16523293649846_3/?env=0000&dist=jAV204zib130jgG140zjx953iI2500zly388
二つの鷹取山を結ぶ直線が富士山に向かう偶然の確立は0に近いでしょう。富士山に対する強いこだわりを感じます。
全国には高取山と鷹取山があって18の対をなしています。西日本の対は神武東征が高取山から鷹取山の方向に進んだ矢印になっていて、東日本は日本武尊東征が進んだ矢印と思われます。二つの東征が「たかとり山」で遺されているので一連の建国の事業と認識していたことが分かります。詳細は割愛しますが、次のURLは明日香の高取山から身延の鷹取山を結ぶもので、日本武尊東征出発の矢印です。これも富士山を意識しています。
http://www.mapion.co.jp/m/route/34.90500006590902_137.18660549314853_2/?env=0000&dist=fNW331ypG164ior668zm7770
次のURLは日本武尊が東京湾を渡るために海老名から横須賀の走水に向かった矢印です。
http://www.mapion.co.jp/m/route/35.29095986189311_139.43335559043754_3/?env=0000&dist=jhp001ztz764jAV102zib158jI4030zfv052
横須賀の鷹取山は大磯の鷹取山と共用して富士山を指し示しています。尊の富士山へのこだわりと考えます。
石文の先は野辺地ですが、アイヌ語が語源ですか。「ヌプンペッ」(野中を流れる川)がなぜ「野辺地」になるのかわかりませんが、語感からと当てた人の意識がこの字を選んだのかもしれませんね。
田村麻呂が現地に行って千曳神社を創祀したなら、刻んだ石文を自分で移動することは無いので、田村麻呂が刻んだのではないことが確実ですね。
はじめに戻りますが、田村麻呂が創祀ならば「日本中央」の文字を見て日本武尊を想起しないはずがありません。祭神は日本武尊にしていることでしょう。
やはり此の地には来ていないと考えます。
文室綿麻呂の創祀が有力と思います。尾山頭の神社地にはすでに、祭神の塞の神、八街彦神、八街姫命がなんらかの形で祀られていて、この時社殿などを整えたのではないでしょうか。
・参考ですが、私が千曳神社を訪れた前日(2007年9月14日)に青森市を訪れたとき、青森市発祥の地善知鳥神社も正遷座千二百年祭中でした。縁起には「安日十七世の孫安東といへるは人皇五十代桓武帝二十一年阪上田村麿東征の時、田村麿に力を合わせて遠近の法令を定む。田村麿その事を奏したれば、勅命あってまた従三位中納言を贈官ありて当社を再建すと云々。」とあり、「田村麿が和銅二年に善知鳥神社を再建したといわれる。」と云っています。千曳神社も同様と考えて良いかも知れませんね。
・私は未調査ですが「ホツマ」ではヤマトタケルが東征で現地へ行ったことは書かれていませんか?
・「ヤマトタケル」「タカトリヤマ」などに関してはこの記事には直接的ではありませんのでこのコメント欄で交信するよりメール交信がbetterと考えます。私は「たかとりさん」がどなたか判っていますがメールアドレスを知りません。コメントでなく、右下にある「メッセージを送る」で送っていただければ私だけに届きます。
試みたところ、登録のページが開きいろいろと登録が必要なので躊躇しています。当方への連絡は次のURLから可能です。書籍購入欄ですが冊数0でも大丈夫だと思います。おそれいります。
http://vbsoft.sub.jp/hana/takatori11.html
当方の連絡先をお知らせしました。
メール受信しました。とりあえずお知らせまで。
現鎮座地は東北町ではなく七戸町です。
たかとりさん
ホツマツタエには当地辺りへ来たとは記されていないようですね。
私もチビキです。みんな考える事一緒なんですねぇ!へんてこりんな名字のルーツを探すなんて。
私[草加娘、今年38歳(独身)]は、年末このサイトを見つけ、父[越谷、今年66歳]に見せました。
そしたら、父も昔、ルーツ探しの旅に出たようです!
越谷メモによりますと、私のヒイじいちゃんが、千松だそうです。(お初にお目にかかります。)
千松には、13~4人子供がおりましたが、上から小さいうちに亡くなっていて、すぐ上の二人は戦死、真ん中らへんがウチの[寿都矢追のじいちゃん]でした。
なので、実質長男だったので「本家<ヤマセン>漁師」と呼ばれておりました。
すぐ下の弟(おじちゃん)が、道路を挟んで2、3軒隣に「別家<マルセン>漁師」として住んでおりました。
その下は、姉妹が多かったかな。
私は、千松の事が知りたいです。長松と由松のどちらかの子なのか、それとも、その兄弟の子なのか。
みなさんのコメント呼んで、本家がウチ以外にあった事にビックリ!
しかも、みなさん、知らない!(笑)
それはそうと、いつから千引と名乗ってたんですかね?むか~し、むかし、苗字は偉いヒトにしかなかったんでしょうに。
そのまま、千曳にしていてくれれば…子供の頃、バカにされなかったのになー。
って、今はすごい楽しくなってきました!その後展開しますかねぇ(笑)
はじめまして
千引千松さんは初めて聞きました。千引健靖さんがご存じかも知れませんね。